私は10代の頃から希死念慮を意識し始めるようになり、
とくにきっかけがなくても、突然やってくる「死にたい」という
感情に何とか抗いながら生きている人間です。
社会と関わることでそのストレスからその衝動はやってきたり、
反対に関わらなくても自分の所在がわからなくなりその衝動はやってくる。
忙しくしていようが暇していようが、
「死にたい」という気持ちは突然やってきては去っていく。
そんな中、仕事中に対向車に突っ込まれて死にそうになったことがある。
その時に私が思ったことは、
「これでやっと死ねる」
ではなく、
「まだ死にたくない!」
だった。
制御がきかなくなった私の車は電柱にぶつかり、
そして止まった。
自分の手から離れていきそうな命に、恐怖を覚えた。
死ぬのは怖い。
人間の本能は、死が怖いのだ。
私はどうせ希死念慮如きで自死を選ぶことはないことを悟った。
ならばこの希死念慮をうまく飼い慣らして生きていかなくてはならない。
どうすればいいか悩んだ結果、寝に帰るだけレベルで仕事した。
それも3年ぐらい経つと、ひょっこり希死念慮は顔を出した。
確かに忙しくしていると希死念慮の出現頻度は低くなった。
けど、低くなった分、久しぶりのこいつは強烈だった。
結局なんでか帳尻合うようになっている。
それではこいつにどう向き合っていくか。
消えないな向き合うしかない。
リリー・フランキーが、「うつは大人の嗜み」というようなことを言っていた。
もういっそのことファッションとして扱ってやろうか。
光のないところに闇はない。
苦しいからこそ自分にとっての至福がなにかわかる。
全ては表裏一体であり、2つで1つなんだ。
希死念慮は一瞬の間をついて出てくる。
その間が何だったのかを思い出す。
「あ、目の前のことに集中しすぎてたな」とか。
視野が狭くなったとき、世界がここしかないと感じたときに
苦しさを覚えて出てくるSOSが希死念慮なのだと思う。
人より少しだけ繊細な自分をケアできるのは自分だけ。
自分を満たすことができれば、他人に優しくすることもできて、
自分以外の誰かに感謝されるようなことができれば、それはきっと自分の存在価値を認められるきっかけになる。
それに依存してしまえばまた自分を見失う。
バランスに気をつけて、少しずつ一歩ずつ着実に自分の存在価値を認識して認めていく。
これが10年以上にわたり、希死念慮に悩む私の結論である。
自分をケアするというのは人それぞれで、
本を読んだり、運動してみたり、見た目や身の回りを清潔に保つことである。
自分の土台がしっかり整えば自ずと、いいご縁に巡り会えてまた気持ちを新しく生きていこうとそう思えるのだろう。
